凪ヲ待ツ

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双極性障害2型アラフォー女子の日々感じたことゆるゆる

延命治療を望まなかった家族の話②

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2020.03.06
急なことから1日経ち、入院に必要なものを届けに行く。札幌は緊急事態宣言が出てまもなくで、病院の面会は制限されていた。ICUに出入りする度に検温を行い消毒をして、当たり前が当たり前でなくなってきている日常のなか、私たちだけが非日常感溢れるこの現状。一日経ったら、もしかしたら、父は目を覚ましているかもしれない。そう思って病院へ行ったが父は昨日と変わらぬ姿で私たちを待っていた。心なしか顔がむくんできたかのように感じ、表情も苦痛を耐えているかのように見えてきた。

これは私がその当時感じたことだが、あとから聞くと母も同じように見えていたらしい。そして、私と母の気持ちは同じものだった。
<もうこれ以上苦しませたくない。苦しむ姿を見たくない。私たちが辛いのはもちろんだが、なにより本人がこのような状態を望んでいないのではないのか
この時に私と母の気持ちはほぼ固まっていたと思う。


父の容態も変わらずで面会はできたけれども、担当医に会える予定だったのが6時間近く待っても結局会えずじまいだったこの日。待っている間に他の家族が医師に罵声を浴びせている様子(助かる見込みがあると言っていたのに、あれは嘘だったのか・・・と詰め寄っていた)を見てしまったりして、心境がわからなくもない故に辛い気持ちになったその一方、私たちは助からないからこれだけ冷静にいられるんだよね、そう妙な諦めをバタバタとするICUの廊下で感じていて・・・。

答えが自分の中で出せているのだから、もうあまり気持ち揺れ動かないもの。なぜか段々と自分を冷静に見ることもできていた。そしていずれしっかりと私たちの選択の意思をはしないといけないわけで、深夜まで検索して色々と読みあさった中、この2つの記事が自分の気持ちの落としどころを納得させるものだった。

news.yahoo.co.jp

www.kango-roo.com


とはいえ、結局は自問自答してしまった2020年ではあるのだけれど。
いまとなっては、それは当然のことだと思うわけで。



2020.03.07
医師との面談で前日に脳死状態になったので、最終的にどういう選択肢にするか話をする。慎重に慎重を重ねた言葉で丁寧に説明していただいた中での選択肢、
延命治療の継続か、
延命治療の中止か。
それをいつするか。
私と母の意向はこの2日間で固まっていてこれ以上の延命治療はしないで欲しいと即断できたが、妹の気持ちはその日まで確認できていなかった。私たちの気持ちは決まっている、そう告げると彼女は戸惑ったようでひとりにさせてくれないかと言い、病院の暗い廊下の端で考えをまとめていた。妹は20代でひとり暮らしを始め、いまは結婚して同じ市内に住んでいる。推測でしかないが、妹が父と暮らした年月は私より短いためこんなにも両親と私が「死への思い」を話していたことに驚いていたのだと思う。その父の思い、意思を理解するにはひとりの時間が必要だったのだ。私は申し訳なく思ったと同時に、妹の父への深い思いを感じた。

改めて話し合いをした結果、彼女も延命治療を望まないということで私たちの最終選択は決まった。連絡をしていた東京に住む父方の叔父もかけつけてくれ、家族の意向として看取ることになった。日にちは2日後の3/9。


少し父の話をしたい。
父は東京で生まれ育った。家族関係は複雑なものだった。2つ上の兄とは母が一緒、15下の弟とは父が一緒、ようは父がいないと兄も弟も他人。そんな兄弟たちだが過去には色々あっただろうけれども大人になってから兄とも弟とも仲良く、私も東京に住む2人の優しいおじやいとこ達と会うことは楽しい時間となっていた。父が北海道に来たのは20代前半。若くして病に倒れた母親を看取り、親戚が経営する店の手伝いにやってきたのだった(実は父親の借金の形に伯父に売られたらしい・・・とは、父が亡くなる前に叔父から聞いた話)。

29歳で母と結婚。40半ばまで営業職を長くしていたが、リストラに遭いそれからは職を転々とし。この頃我が家は経済的に大変で、専業主婦だった母もパートに出るようになり私も妹も高校に入ったら直ぐアルバイト始めたのだ。色々とキツかったけれども困難なことは家族で一致団結して乗り越えてきた。私の家族は自他共に認める仲良し家族なのだが、こうしたことがあったから絆は深まったのだと思う。
介護の仕事に就いたのは父が50代のころ。病院で働き経験を積み、60歳で介護福祉士の資格取得。それからは母と一緒にデイサービスや老人ホームでなんでもできる介護職員として69歳の倒れる前の日まで働いていた。


自慢の父だった。
ここ数年は2人で映画を観に行くことが多く、老いをたまに感じることもあったけれどまだまだ感性が若く、見た目も若々しく、可愛らしいところが沢山あって・・・本当に大好きだった。
親戚、両親の職場の人、利用者さん、私の友だち、みんなに愛されていた。



2020.03.08
看取り日が決まったので、葬儀会社と連絡を取り細かなことを話し合い。色々やることが多いのが悲しくもありながら、それでも淡々と進めていかないと、父の最後はしっかりと家族で看取らないと、その一心で動いていた。
そんな中で面会に行った父の顔は心なしか「それでいいんだよ」と言っているかのように見えたので、私の気持ちはすーっと落ち着いてきた。父は何も言わないけれども、全てわかっていて受け入れてくれるのだ、安心する気持ちが生まれてきた。

ただ、次の日に自分がどうなるか。
看取りの場でどんな気持ちになるのか。それだけが不安だったけれども・・・



2020.03.09
看取り当日。
別れは素敵に行いたい。父は母と私たち姉妹が綺麗な格好をして出かけるのをいつも嬉しそうに見ていた。それを思い出し、私たちはできるだけのおしゃれをすることにした。時間は決まっていたので間に合うように病院に行くだけだったが、前日に容態が悪くなることもあるかもしれないと聞いていたので、早朝からいつでも出られる準備はしていた。(短い入院の間に2度ほど心臓が止まり蘇生を行っていた)

案の定予定時間より早く電話が来て、慌ててタクシーを呼んで乗り。私たちが駆けつけるまではどうか頑張って欲しい、その一心で病院につくまでドキドキしぱなし。それを察したのか、最短ルートでできるだけ安全運転をしてくれたドライバーにはいまも感謝している。


病院の配慮で父はICUから個室に移っていた。
機械の音が響く中「大丈夫ですよ、頑張っていますよ」そう看護師が言ってくれ、父の頑張りを褒めてくれる人のあたたかさを感じた一方、もうこれで終わりなのか、もうこれで父と会えなくなるのか・・・そう思う気持ちも湧いてきて私の心の中はぐちゃぐちゃになり。思わず声を上げて泣いてしまったのをいま思い出した!
父が懸命に頑張ってくれていてもそれでもまだ予断はならない状況で、母と私たち姉妹と義弟は両親の働く会社の社長でもある母方の叔父、東京から駆けつけた父方の叔父が集まるのをひたすらに待った。

みなが揃い、時間が来た。

「では、人工呼吸器を外させてもらいます。
自発呼吸は1時間ほど続くかも知れませんけれど、苦しくはないと思います。
皆さんで見送ってあげてください」

段々呼吸が弱まっていき・・・
もう本当に最後なんだと・・・
そして、私たちは代わる代わる「ありがとう」を言い・・・

私たち家族と2人の叔父、病院の方々に看取られ父は息を引き取った。
父はとてもとても穏やかな顔をしていた。




最後に。
長々と書き連ねたけれども、このような形で父を看取った私が感じたこと。
家族や親しい人とのなかで、
「どう最後をむかえるか」
「どうして欲しいか」を話す。
これは自分にとっても家族にとっても、有意義なものとなるということ。この2つを話すタイミングに早いも遅いもない。まだ先の話だからと見ないふりをするよりは、思い立ったときに話をするだけでいい。

どこまでを「個人の意思」とするかは難しいところだけれども、
私たちは父の意思をしっかりと尊重できた、そう思う。

私も、いつどこで何があるかわからない。
これからも機会があれば母と妹と話すようにしていきたいと思う。
生前の父と話していたように。