凪ヲ待ツ

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双極性障害2型アラフォー女子の日々感じたことゆるゆる

私の病歴(その1)

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双極性Ⅱ型障害と診断されたのは、5年前。

診断を受けるまでは、私は反復性のうつ病だと自分では思っていました。
双極性障害を発症したのがいつ頃になるかは、一生懸命思い返してみるのですが、自分でもよくわかりません。
良くなったり悪くなったりの繰り返しが20年以上に渡っていたからです。


古い記憶をたどる中、最初に私が精神的な不調を感じ、体調に表れたのが中学2年の冬。
なんだか理由はわからないけれど、朝が辛く、吐き気がする。身体が重く動けない。そこから不登校になり、修学旅行と卒業式以外は母校に登校することはできませんでした。

高校の進学は単位制高校を選択。
入学したものの1年間は通学できず、2年目からちょっとずつですが単位を取り、6年かかったのですが、やっと卒業しました。

高校のときにも、体調不良は何度もあり、母の知り合いのお医者さんの紹介で、小児科外来のカウンセリングを定期的に受けていました。話を聞いてもらったり、塗り絵や箱庭をした記憶があります。たぶん、投薬治療は受けていなかったはず。
ここで、【起立性調節障害】の診断。病名がつきました。


高校卒業後、幼児教育を学ぶ短大へ進学。1年は通えましたが、2年目の途中から調子が悪くなり休学。
休学している間に、病院にかかるべきではないのかと思い、メンタルクリニックにかかりました。以前の病院に通う選択もありましたが、二十歳を過ぎていたので、小児科外来にかかりたくない気持ちと、担当の臨床心理士さんが別の病院に行ったため別のところを探して、いわゆる「こころの病気」の病院に行きました。

ここでは【うつ病】の診断。
簡単に治ると思っていたのですが、3ヶ月経っても良くなりませんでした。
留年して復学までしたのに、どうにもこうにも通うことが無理で、泣く泣く中退。

そして、このクリニックはいま思えば多剤処方でした。
睡眠薬も多く、ふらふらになって階段から落ちそうになったことがあったり、呂律が回らないことや色々と身体に表れていたのですが、先生に訴えても何も変わらず。
とにかく冷たい対応。話は何も聞いてくれず薬だけ出す。

そういったことが重なり、医者に対する不信感も増すばかりの中、母に通院を止めたらどうかと言われました。学校を辞めたことで少し調子も戻ったことで、通院を止めることにしました。
この判断が良かったかどうかは、過ぎたことなのでわかりません。
ただ、薬が抜けてとてもラクになった記憶はあります。



短大を中退後、その年に某保険会社の一般事務の仕事に就きました。
さて、これで体調も落ち着くだろう。そう思っていましたが、3ヶ月ほど経ったところでまた体調が悪くなってきて・・・メンタルクリニックを受診。以前のところには絶対かかりたくなく、妹が何度か行ったことがあるところに行ってみました。

先生も感じが悪くなく、話もまあまあ聞いてくれるし、少しは良くなってきた気がしました。ここでの診断は【うつ病】。そこから、この病院へは6年間通院することになります。

薬の処方はパキシルデパスマイスリーサインバルタも出てたはず。
ただ、ずっと通院していたわけでもなく、調子が悪くなった時だけ行っていました。先生も通院ペースをあれこれ言わず、私がちょっとマズいかも・・・と感じた時はじっくり診てもらう、それ以外は特に色々言わない人。当時はこれで良いと思っていました。


働き始めたはよいものの、相変わらず体調は安定しないままでした。
良くなったり、悪くなったりを繰り返していて、調子が悪くなったら辞める。
ちょっと休んで大丈夫だと思ったら、仕事を探して就く。

気づけば、6年の間に5社。

そして、この5社目の会社に行っていたときにオーバードーズ、いわゆる過量服薬をしました。睡眠薬マイスリーを3シート。

この辺は記憶あやふやなのですが、定量より多く飲んだものの寝られないまま、ずっと気持ちがほわーんとした状態で起きていました。その間に、家族と話しつつも隠れて少しずつ飲んでいて・・・様子がおかしくなったことに気がついた家族によって救急車で緊急搬送されました。

気がついたら、病院のベッドの上にいました。
腕を動かそうとしたら点滴していて、違和感。ぼーっとしている中、母が泣いていて、自分がODしたことを知りました。胃洗浄はしなかったそうです。


長くなったので、その2へ続きます。